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Interview宇宙の始まりからつながる命、一粒米(いちりゅうべい)

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「一粒」監修の曹洞宗長光寺住職であり精進料理研究家・禅アーティストの柿沼忍昭氏に、お話を伺いました。

「食べる」ことは、命を託されること

ここに一粒の米があります。
禅宗では「米一粒 須弥山の如し(こめひとつぶ しゅみせんのごとし)」と言います。
須弥山とは宇宙のこと。この一粒の中に宇宙の全ての記憶が入っているということを意味します。

米一粒は、元となる一粒が稲に育ち実って一粒になったものです。その元になった一粒の、さらに元になった一粒があります。こうしてたどっていくと、生命の誕生までさかのぼることになります。さらには地球の誕生、そして宇宙の誕生までさかのぼることができるでしょう。ずっとつながってきた命が米一粒の中に封じ込められているのです。

宇宙の根源からつながる命が凝縮されている一粒の米。その命を、もう一つの命である自分がいただくのが食事です。米一粒にある命の宇宙と、自分の命の内なる宇宙があり、お互いの宇宙が「食べる」ことによって、遭遇する。一粒を食べた私は、宇宙をつないだことになります。

ある時、おかゆを食べていると、米が私に話しかけてきました。
「私はあなたに出会うために、命をずっとつなげてきました。やっとあなたを見つけて、あなたに見つけていただいて、食べていただきました。あなたに私の命を託します」
そう聞こえてきたのです。長い旅路を経て、一粒の米と私は出会いました。長い旅路とは、時間だけのことではありません。大地の恵み、人の恵みによって、出会うのです。

私たちは毎日食べています。つまり、毎日毎日宇宙と遭遇しています。こうして私たちは宇宙から繋がった命によって育まれているのです。

祈りを捧げて命をいただく

その命のパワーをどう使うかは、その人の自由です。ただ、私は「あなたに託します」と言われたからには、責任があると思いました。そして命を託されるということは喜びでもあります。こうして託された命を、どうやって生かしていくのかを考えたいのです。

一粒一粒が消化されることは、仏教的には「成仏していただく」ことです。そのためには、祈るしかありません。自分はこの命をいただくかわりに、何をするのか。「家族を養っていきます」とか、「世の中が美しくなるように働きます」とか、何らかの祈りがなければ、食べた一粒の命は虚しいものになってしまうでしょう。

私たちは生きるために食べます。生きるということは、そこにいろいろな願いがあり、祈りがあるはずなのです。

「祈りのない食事は全て貪りである」という言葉があります。私たちは、何のために生きるのかと考えなければ、命をいただく資格はありません。命を、私のために集めていただき、料理をしていただいたから、それで「ごちそうさまでした」と言うのです。

もう一度、米一粒を見てください。宇宙の全てが詰まった完全なるものです。この一粒米を前にして、自分はそれをいただけるだけの行いをしているのかという、反省をしなくてはなりません。米に限りません。どんな食べ物でも、自分が選んだものだから。選んだ責任があるのですから。野菜も同じです。野菜は一片菜(いっぺんさい)、水は一滴水(いってきすい)といいます。水は、大気の中で雨となって大地に降り、また大気に戻っていく。そういう循環の中で、水は成り立っている。その中の一滴をいただくのです。私たちが摂取するものはすべて、ダイナミックな宇宙なのです。

常にこのように考えなくてもいいけれど、一粒への感謝と反省をして祈り続けることを忘れないでください。難しく考える必要はありません。命に対して常に謙虚であろうという思いがあれば、それでいいのです。

こうしたことは、少し立ち止ってみないと感じることができません。噛みしめれば噛みしめるほど、甘みが増すお米。一粒の米にあるダイナミックな宇宙に思いを馳せてみてください。

ととのう「一粒」監修者プロフィール

  • 柿沼 忍昭(かきぬま にんしょう)

    長光寺住職・精進料理研究家・禅アーティスト

    1956年神奈川県生まれ駒沢大学卒。20歳で出家し、インド・アメリカを放浪。永平寺で修行。修行中精進料理を学び、食事を通して禅を学ぶことができる「食禅(じきぜん)」を考案。禅アーティストとしては、ダイアログ・イン・ザ・ダークとのコラボなど、墨彩画・インスタレーションを通して幸せをデザインしている。

    著書:
    『食禅 心と体をととのえる「ごはん」の食べ方』(三笠書房《知的生きかた文庫》)
    『『禅、ホッとする考え方』(三笠書房《知的生きかた文庫》)
    『大丈夫』、『命の理』(共著)など。