こどもたちが逃げるために走るのではなく、
喜びの中で走れますように。
こどもたちのその幸せを、
おとなたちが奪うことをしませんように。
母が終戦の日の記憶を語ったことがありました。小学生だった母は学校に登校すると、背丈ほどある大きな籠を背負い、来る日も来る日も軍馬のエサとなる草を集めたそうです。勉強の時間はほぼなし。ランドセルの代わりに籠を背負い、冬になれば血眼になって草を探さなければなりません。籠いっぱいに草を入れなければ、憲兵から思い切り殴られてしまうのです。8月15日も同じように、母は山で懸命に草を集めていました。すると血相を変えた大人たちがやってきて、「もう草は集めなくていい。日本は戦争に負けたんだ」と泣き叫びました。
母は、子どもながらに悔しい気持ちを持ちながら、「もう逃げなくていいんだ」と思うと全身の力が抜けてしばらく立ち上がれませんでした。「ねぇ、戦争と聞くと戦う場面を思い描くでしょう?でも多くの人は空の下で逃げ惑うの。朝も、昼も、夜も、空の上から落ちてくる恐怖に怯えながら逃げるのよ」母は声を絞るように、私にそう伝えるのでした。
戦争は戦うことよりも、走ること。大人も子どもも、空の下をただただ走る。逃げるために。生き残るために。子どもは空を仰ぎ、笑いながら走る存在ではなかったのでしょうか。私も、私の子どもたちも、そして私の孫たちもただただ空の下を走っていました。笑いながら、歌いながら。近所の子どもたちも。旅先で出会う子どもたちも。ただただ、口を大きく開け、楽しそうに空の下を走っていてほしい。平和の象徴のようなその姿が、当たり前であってほしい。
だから過去を知り、そして今を知り、未来を語りましょう。安心の空の下の、暗闇の中で。戦後80年が90年、100年といつまでも続くように。そのための対話をしましょう。戦争の対義語は単なる平和ではなく、対等な対話を続ける努力をすることなのだから。
一般社団法人ダイアローグ・ジャパン・ソサエティ 代表理事
バースセラピスト
志村季世恵