「ピース・イン・ザ・ダーク」を2025年夏に開催する意義と経緯
こどもたちが逃げるために走るのではなく、喜びの中で走れますように。
こどもたちのその幸せを、おとなたちが奪うことをしませんように。
志村季世恵
母が終戦の日の記憶を語ったことがありました。
小学生だった母は学校に登校すると、背丈ほどある大きな籠を背負い、来る日も来る日も軍馬のエサとなる草を集めたそうです。勉強の時間はほぼなし。ランドセルの代わりに籠を背負い、冬になれば血眼になって草を探さなければなりません。籠いっぱいに草を入れなければ、憲兵から思い切り殴られてしまうのです。
8月15日も同じように、母は山で懸命に草を集めていました。すると血相を変えた大人たちがやってきて、「もう草は集めなくていい。日本は戦争に負けたんだ」と泣き叫びました。
母は、子どもながらに悔しい気持ちを持ちながら、「もう逃げなくていいんだ」と思うと全身の力が抜けてしばらく立ち上がれませんでした。
「ねぇ、戦争と聞くと戦う場面を思い描くでしょう? でも多くの人は空の下で逃げ惑うの。朝も、昼も、夜も、空の上から落ちてくる恐怖に怯えながら逃げるのよ」
母は声を絞るように、私にそう伝えるのでした。
戦争は戦うことよりも、走ること。大人も子どもも、空の下をただただ走る。逃げるために。生き残るために。
子どもは空を仰ぎ、笑いながら走る存在ではなかったのでしょうか。私も、私の子どもたちも、そして私の孫たちもただただ空の下を走っていました。笑いながら、歌いながら。
近所の子どもたちも。旅先で出会う子どもたちも。
ただただ、口を大きく開け、楽しそうに空の下を走っていてほしい。
平和の象徴のようなその姿が、当たり前であってほしい。
だから過去を知り、そして今を知り、未来を語りましょう。安心の空の下の、暗闇の中で。
戦後80年が90年、100 年といつまでも続くように。そのための対話をしましょう。
戦争の対義語は単なる平和ではなく、対等な対話を続ける努力をすることなのだから。
社会課題を構造から変容させ、解決する方法を探している。
志村真介
私はずっと探していました。社会を構造から変え、そこにある課題を楽しみながら解決する方法を。
高校の頃の担任の先生から、「インドで井戸を掘るボランティアをしないか?」と声をかけられて以来、学生時代の私は度々インドを訪れていました。
カースト制度により低い地位にいる人々は水のない地域で暮らしています。女性や子どもたちが大きな水がめを頭に乗せ、何キロも離れた場所に水を汲みにいく日々。不衛生な水による病気が蔓延し、子どもたちは水を汲みに行くため学校に行くことができません。多くの社会課題の根本となる水問題の解決のために、NGO団体が始めたのがこの井戸堀りでした。
私は井戸堀りに熱中する一方で、「これは本当に根本的な解決なのだろうか」と自問自答を繰り返していました。ボランティアに支えられ、人的にも、金銭的にもギリギリな状態。時に自分が撮影したインドの写真を販売し、井戸堀りの資金に充てていたこともありましたが、それは続けられる仕組みではありませんでした。
「もっと構造からこの課題を変える術はないのかーー」答えは見つからないまま大学を卒業し、社会人となり、井戸堀りのことをすっかり忘れていたある日、「プレイポンプ」の仕組みを知り衝撃をうけました。
子どもたちが回転する遊具に乗り、その回転を動力に変えて井戸の水を組むという仕組みで、これなら人的資源は「子どもの遊び」に変わります。社会課題を構造から変えるため、考え続けていた人がいた。そのことに私は感動したのでした。
さらに時が経ち、1993年4月27日。日本経済新聞の海外トピックス欄にあった小さな記事に、私はまたも衝撃を覚えました。「博物館で闇の世界体験」。そう、ダイアログ・イン・ザ・ダークとの出会いです。
「これは社会の構造をすっかり変えてしまうことのできる仕組みなのではないか?」あまりにも斬新なコンセプトに感動し、すぐに新聞社へ連絡。発案者のアンドレアス・ハイネッケの連絡先を聞き、手紙を書きました。その2年後にはアンドレアスに会いにドイツを訪ね、日本で開催する権利を得ることになったのです。
いつか対話が、あなたと私の間の見えない壁を壊してくれる
1999年にやっと、ダイアログ・イン・ザ・ダークを日本で開催することが叶いました。その後、2001年にアンドレアスは初来日。彼は、コアメンバーである季世恵と会うことをとても楽しみにしていました。季世恵がターミナルケアをしていること、そして彼女の幼少期の家庭環境に興味を持っていたのです。
アンドレアスと季世恵は互いに意気投合し、私たちはおよそ6時間にもわたり、対話を行いました。3通りの異母姉兄がいる季世恵に対し、「関係性はうまくいっているの?」とアンドレアスが尋ねると、季世恵はこう答えました。
「いいえ。でもいつかお互いが、”あなたときょうだいでよかった”と思う日が来ると信じているんです」
アンドレアスは静かに頷き、私たちに自分のことを話してくれました。
小さい頃はドイツ軍を信奉し、戦闘機のプラモデルを好んで作っていたこと。そして、13歳のある日、衝撃的な事実を知ることになったときのこと。
それは、第二次世界大戦に関するドキュメンタリー番組を母と観ていたときのことです。
アウシュビッツに強制送還されるユダヤ人のシーンでアンドレアスは言いました。「ユダヤ人のせいで、ドイツは戦争に負けたんだよね?」。この一言に、母は涙を流し、自分がユダヤ人であることを明かしたのです。「私の祖父は1939年にドイツ軍に殺され、やがて家族は全て消滅したのよ」と。一方でアンドレアスの父はドイツ人。父方の祖父はナチス党員で、最期まで強力な支持者でした。
※詳細はアンドレアス出演のTEDを参照(https://www.youtube.com/watch?v=ApLYJ3sHxWA)
彼はそれ以来ずっと、平和に関することを考え続けました。
「偏見を打ち破り、異文化との間に存在する壁について語り、理解し合うことができたらーー」。アンドレアスは大学で哲学を学びました。そこでマルティン・ブーバー著『対話の哲学』を知ったこと、そして、ユダヤ人女性と出会い、人生のパートナーとして共に過ごすことを決めたことを教えてくれました。
「見た目や立場で人を判断してしまうと、対等な関係は生まれないんだ。”ユダヤ人”と”ドイツ人”ではなく、”あなた”と”私”で対話できる場所を作ることが大切なんだよ。それはユダヤとドイツだけではなく、世界中で必要なことなんだ。だから私は、ダイアログ・イン・ザ・ダークを作ったんだ」
この時、私たちに深い絆が生まれ、私と季世恵は日本でダイアログ・イン・ザ・ダークを根付かせることをアンドレアスに誓いました。”あなた”と”私”が対等な関係で対話をする場を作るために。そして、「争い」という社会課題を根本から変容させて解決させるために。
平和のためのダイアログ・イン・ザ・ダークを作れるのは、日本しかない
日本のダイアログ・イン・ザ・ダークではさまざまなことが催されます。これは世界で唯一のことです。アンドレアスは「いつか、きょうだいの関係が良くなることを信じている」と語った季世恵にだけ、コンテンツをカスタマイズする権利を譲ったのです。
それからというもの、私たちはダイアログ・イン・ザ・ダークでさまざまなコンテンツを展開しました。四季を感じるもの、社会課題に意識を向けたもの‥。時には、「家族を仲直りさせてほしい」という子どもからの依頼を受け、対話の場を作ることもありました。東日本大震災の後、原子力発電への賛否が家庭内にも広がり、それにより離婚を決断する夫婦の子どもたちからの願いでした。そのコンテンツの評判はアンドレアスの耳にも届き、ルワンダのジェノサイドの問題を緩和するためのコンテンツ検討にも参加しました。
ダイアログ・イン・ザ・ダークを体験した人からはこんな声が届きます。
「人の声がこんなに安心感をくれるなんて知らなかった。」
「人とのつながりを強く感じ、大切に思えた!」
「ダイアログ・イン・ザ・ダークは、「信じる」ことの価値を改めて教えてくれる場所」
「みんながやさしい人に感じた」
彼らはこの体験をする前まで、全くの他人でした。たった90分、暗闇のなかで出会っただけなのに、その他者とこれだけ深い絆を作ることができるのです。
その度に私は改めて思います。「この暗闇が、社会を変える」と。
そう信じて26年。私と季世恵はダイアログ・イン・ザ・ダークを社会に根付かせることに文字通り人生を賭けてきました。「やり残したことはないだろうか?」そう考えた時、私たちには「争い」という社会課題を根本から変容させて解決させるための対話、そう、「平和のためのダイアログ・イン・ザ・ダーク」をやる責務があるのではないかと思い至ったのです。
戦争の対義語は単なる平和ではなく、「対等な対話を続ける努力をすること」
平和のためのダイアログ・イン・ザ・ダークを思い至った経緯には、ある物語との出会いがあります。それは1945年8月6日、「日銀の奇跡」と語り継がれる日本銀行広島支店と吉川智慧丸支店長の話です。
日本各地の配属を経て多くの戦禍を経験し、広島もいつか被害にあうと危機感を持っていた吉川支店長は、広島に赴任してすぐ、地下の金庫に念入りな防災を施した。結果、爆心地からわずか380メートルの距離にあった日本銀行の建物と現金を守りきった。吉川支店長は被災し重症を負うが、罹災した市民のためにと銀行業務を一刻も早く再開するよう指示を下した。
この号令の下、日本銀行広島支店は各銀行に銀行業務は8 月8 日には再開。しかし、多くの預金者は被曝により預金通帳や印鑑を失っている。それに気づいた吉川支店長は再度号令を出した。
「(預金者の)言い値で払出しを行いなさい」
後日、出入金の金額を調べたところ、市民の言い値と実際には誤差がほとんどなかったことが判明。原爆投下後わずか2日後に起こったこの出来事は、吉川支店長の「人はどんなときも信じうる存在である」という言葉とともに、「日銀の奇跡」として語り継がれるようになった。
時々、「どうしてこんなに大変なのに、ダイアログ・イン・ザ・ダークを続けるのか?」と聞かれることがあります。その度に「社会に必要だから」と答えてきたのですが、吉川智慧丸支店長と「日銀の奇跡」の話を知り、より明確な答えを見出せるようになりました。
「暗闇の中での対等な対話が、平和につながると信じているから」
今こそ、今だからこそ、どんな時も人を信じることを選んだ旧日本銀行広島支店で、平和のためのダイアログ・イン・ザ・ダーク、「ピース・イン・ザ・ダーク」に想いを込め、開催をしたい。私は季世恵とともに、そう強く決意しました。
どうか、この「ピース・イン・ザ・ダーク」開催に力を貸してください。私たちとともに、「平和のための対話」の場を作っていただきたいのです。